[Resouce]
Viewpoint: Britain must pay reparations to India
5月末、世界で最も伝統あるディベート・サークルであるオックスフォード・ユニオンは、「英国はその元植民地に賠償金を支払うべきか」をテーマにした討論をおこなった。講演者は、元保守党議員のリチャード・オッタウェイ卿、インドの政治家で作家であるシャシ・タロール、英国の歴史家ジョン・マッケンジーなどである。シャシ・タロールの議論は討議の後 Twitter で拡散され、広い指示を得た。その論点は以下のようなものである。
経済
18世紀初頭、インドのGDPは世界の23パーセントを占めていたと推計されており、これはヨーロッパのそれとほぼ同じ規模である。しかし、インドが独立した時点で、GDPのシェアは4パーセントまで低下していた。理由は単純で、インドは英国の利益のために統治されていたからである。19世紀の終わりの時点で、インドは英国最大の輸出先であり、また英国人の植民地官僚は高給取りであったが、インド人はこれも支払っていたわけである。
インドの脱産業化
英国の産業革命はインドの脱産業化の上に成たっている。インドの織物産業はイギリスによって破壊され、イギリス産の安い織物が市場を埋めた。インドは原料を輸出し、高価な最終製品を輸入する国に改造された。
ベンガルの手織物、特に安いが品質の良いモスリンは世界各地に輸出されていた。
イギリスは、これらの手織物職人の親指を切り落とし、機織り機を破壊し、関税をかけることで、自国の蒸気機関で生み出された織物を世界にあふれさせた。
産業の中心地だったダッカの人口は90%低下し、職人たちは物乞いをせざるを得なくなった。インドの世界マーケットにおけるシェアは27パーセントから2パーセントに落ち込んだ。
「インドのクライヴ」
ロバート・クライヴのような植民地主義者は、インドで獲得した資金を使って腐敗選挙区(住民がほとんどいなくなったものの庶民院の議席が維持されている小選挙区。議席を買収することが容易だった)からの議席を獲得した。
英国の人々は、厚かましくも、彼らがイんドに属しているかのように「インドのクライヴ」などと呼んだ。実態は、彼らがインドを、自らに属しているかのように扱ったのである。
ベンガル飢饉
英国の容赦ない搾取によって、1500から2900万人が飢饉によって亡くなったと考えられている。
こういった大規模な飢饉が最後に発生したのは、英国統治時代である。1943年に、四百万人がなくなったベンガル飢饉は、ウィンストン・チャーチルがインドから英国の兵士とヨーロッパのために食料を転送させた後に発生した。
チャーチルは「ベンガルの飢饉はギリシャのそれより深刻ではない」と論じた。
ある良心的な官僚が電信でチャーチルに、彼の方針が悲劇的な状況をもたらしていると知らせた時には、彼は苛立って「では何故まだガンジーは餓死してないのかね?」と答えただけだったという。
「啓蒙的な独裁」という神話
英国の帝国主義は、「啓蒙的な独裁」であったという正当化がなされてきた。しかし、1943年のチャーチルの非人道的な行為は、それが嘘であったことを明らかにした。
しかし、実際はその嘘は2世紀前から明らかであった。大英帝国は大きなスケールでの征服と欺瞞によってだけではなく、大砲によって反乱軍を粉砕することや、ジャリヤーンワーラー・バーグに集まった非武装の民衆を虐殺すること(日本では一般にアムリットサル事件として知られる虐殺事件)、制度化された人種差別による不平等の維持などによったのである。
植民地時代に英国市民であると感じていたインド人はいなかった。彼らは常に、市民ではなく臣下であったのである。
インド鉄道
インド鉄道網の建設はしばしば、英国統治からくる利益であったと言われる。これは、多くの国が植民地化されずに鉄道を建設しているという自明の事実を無視している。
インドの公衆のための作られた鉄道は存在しなかった。それらは、イギリス人の交通の便のために作られたのであり、それ以上に、インドの天然資源をイギリスに輸出する港に運ぶために作られた。植民政策の利益にならない人々の移動というのは、鉄道の目的としては二次的なものであった。人々の大規模な移動という需要に応えるために鉄道の供給が調整されたことはない。
事実として、インド鉄道は英国植民地の詐欺である。英国の投資家たちは馬鹿げた金額を鉄道事業に投資したが、これは政府が過剰な配当を約束したせいであり、この配当はインド人が支払った税金で賄われた。
英国人の強欲のおかげを持って、インド鉄道建設費用は、カナダやオーストラリアの建設費用と、一マイルあたりで比較して倍である。これは、壮麗な詐欺であった。イギリス人が全ての利益を得、技術を管理し、全ての設備を供給するのであり、したがって利益はすべてインドの外に出て行ってしまう仕組みである。これは当時から「公共がリスクを負う、私企業の企て」と表現されるスキームであった。つまり、イギリスの私企業の利益と、インドの公衆のリスク、である。
英国の援助
植民地制度に対する賠償の要求が大きくなってきた近年ですらも、イギリスの政治家たちはインドのような国々が英国の納税者の負担で、基本的な経済援助を受け取るべきなのかどうかについて論じている。
第一に、開発援助として受け取っているのはインドのGDPの0.4パーセント、1パーセントのさらに半分以下、にすぎない。
英国の援助は、賠償に関する議論が提起すべき金額にはるかに及ばず、インドが農家に払っている肥料の補助金の一部でしかない。このことはこの議論の適切なメタファーになるだろう。
イギリスの人々は我々がクリケット、英語、議会政治といったものを愛好すること、シムラを舞台にした『インドの夏』のようなテレビシリーズの中の、ラジ(英国統治時代の)まやかしの思い出、ガーデン・パーティ、異教徒のインド人、といったものを見るのが大好きだ。
しかし、多くのインド人にとって、略奪、虐殺、流血の歴史であり、最後のムガール皇帝が牛車でビルマに追放された歴史なのである。
世界大戦のインド兵
インドは第一次世界大戦に、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドと南アフリカからの兵士を足したよりも多く、英国兵として兵士を参加させた。
不況、貧困、そしてインフルエンザの蔓延にもかかわらず、インドは今日のお金にして80億ポンド(120億ドル)の資金を拠出した。
第二次世界大戦でも、250万人のインド人が英国軍として参戦した。終戦時には英国の30億ポンドの債務のうち12.5億ドルをインドが引き受けたが、これは植民地時代の搾取から見れば氷山の一角というべきものである。これらは返済されていない。
コ・イ・ヌール・ダイヤモンドの返還
重要なのは、英国が支払うべき賠償金の金額ではなく、贖罪の原則である。
200年の不正義は、いかなる金額でも補償できるものではない。
私は、個人的には、例えば今後200年にわたって、毎年象徴的な1ポンドが謝罪の印として支払われるということで十分満足である。
そしておそらく、英国はコ・イ・ヌール・ダイヤモンド(訳注:ムガール皇帝が代々継承してきたダイヤモンドで、インド皇帝としてのヴィクトリア女王が継承し、現在は英国王室が所有している)が返還されるべきであろう。